garakutagoya

興味、関心のあったこと、そして私の気持ちなどを残していきたい

日記というかなんというか、要するにJournal前の思索。その7

SNSの発展に伴い、最近の人、特に若者は精神を病みやすくなっているとよく言われる。その原因としてはSNS上で常に"眼"がある事が原因とされている。例をあげよう。例えば自分が何かをした、どこかに出かけた場合、それをSNS上に共有する、連絡手段としてSNSを使う、食べ物や衣服を使う時にSNSを活用する等、我々は何かにつけて常に"眼"を使っており、逆に"眼"で見られてもいる。
この"眼"によってどうして病みやすくなるのだろうか?原因としていくつか考えられる。一つは"眼"で見る事によって誰かと比較してしまう為だ。人間の大きな特徴として競争を行うために賢く進化したという説、いわゆる社会脳仮説というものがある。つまり、人間は比較をして、競争をする事でより進化していくよう に設計された生き物なのである。
昔との大きな違いはSNSの発展によって勝負相手が全世界に広がってしまっている事である。かつて、ホモサピエンスが勝負する相手は、自分と同一の社会を形成する者たちであった。例えば、より良い食料を求めるための狩場の争い、より良い住処を求めるための縄張り争い、より良い配偶者を求めるための性的な争い等である。いずれにせよ勝負する相手というのは自分の周りの、手の届く範囲であった。
ところが、社会の発展に伴い、徐々に勝負しなければならない範囲が増え、そしてSNSの出現によってもはや手の届かない者とも勝負をしなければならなくなってしまった。これにより、勝負に負ける回数が段違いで多くなってしまい、人間を精神的に追い詰めてしまうというのが一つの理由である。
もう一つの理由としては常に"眼"で見られている事があげられるだろう。人間は社会性の生き物と言われ、社会の構築にはウチとソトの区別が必要不可欠であった。しかし、SNSの誕生によって、我々はウチを作る事が困難となってしまった。そのため、社会性に歪みが生じ、精神の状態を崩すというものである。
こうして聞くと、「ならSNSを使わなければいいじゃないか。」と言う人もいるだろう。実際、最近では一周回って若者の中でもSNSをほぼ使わないような人も現れている。しかし、残念ながらこれは少数である。SNSをやめない、やめられない理由は様々あるが、結局、SNSが一つの社会となっている以上、これをやめるという事は、社会からの離脱を選択することと同義となってしまい、やめられないというのも事実であろう。度々いうが、人間は社会を作り、社会に与する事で発展し、生きる生き物である以上、SNS以外で明確に存在する、帰属意識を持つ社会がなければ、我々はSNSを断つ事が出来ないのかもしれない。自分には何もないと考える人ほどSNSにどっぷり浸かってしまうのもそのためだろう。
ならば我々はどうすればいいのか?答えはどうにもならないのであろう。というよりも我々の世代はこのような我々の手に届かない社会、"眼"があるというのも組み込んで進化を遂げていくのだ。つまり、我々人間はまだ発展途上なのである。近い将来、我々の子孫はSNSで常に"眼"があってもそれを何だとも思わないように進化を遂げていくのだー 気持ち悪く感じる人間を淘汰しながら。そのような進化を遂げた後に、また我々の子供達がさらに社会構成を変える革命的なツールを生み出し、またそれに順応出来ないものが死んでいくのだろう。残念ながらそれが進化なのである。
SNSが必要となりつつある今、我々は選択を迫られている。一つは気を病むようなSNSをやめ、落ち着いた余生を過ごし、変わりゆく社会に淘汰されていく道。もう一つは"眼"に順応、当たり前のものと感じる、あるいは何も感じなくなる鈍感な心となり、進化をしていく道。どちらが良いか悪いかという事ではない。これが進化なのである。もし君ならどちらを選ぶのだろうか?どう生きるか?答えを楽しみにしている。