garakutagoya

興味、関心のあったこと、そして私の気持ちなどを残していきたい

日記。その19

もし、全ての差別や区別が無くなったとしたら、男女の社会的性はどうなるのだろうか?我々は無意識にこれが同じになると思い込んでいる。例えば、「女性が昇進出来ないのはまだ差別があるからだ。差別を取り払えば男女共に同程度の比率となるはず。」と言った言論である。これはバニラジェンダー仮説といわれる。実際、フランスには「パリテ」といったものが存在し、どんな場であっても男女同数を維持しようとしている。この大学だってそうだ。男女比に偏りがあるからこそ、女学生の入学者を増やすようにキャンペーンを行っている。しかし、これらのキャンペーンには本当に意味があるのだろうか?私には意味のないようなものに思えてならないのだ。
ファクトフルネスという本が一昨年流行った。ここには人間の10の本能による勘違いが記されている。その中にこういったものがある。単純化本能、犯人捜し本能、そしてパターン化本能といったものだ。私はバニラジェンダー仮説とはここから生まれているのではないかと考える。
我々を含め大衆は愚かだ。そのため、単純な帰結を得るものに惹かれてしまう。つまり、職場に女性が少ないのは女性差別があるからだといったものだ。
厄介なのはかつて女性が少なかった原因として女性差別がそこに存在した事は歴然とした事実ということだ。明治、昭和時代は世界問わず全世界で女性が就労したい仕事を自由に選べない現実があった。そのため、現代においても女性が少ない理由をそこに求めてしまう。いうなれば事象を単純に考え、誰かのせいであると犯人を捜してしまうのだ。
しかし、それが今の男女雇用の不均等を招いているとするのは早計だ。実際に日本よりもデータの上で男女平等とされるアメリカ、スウェーデンであってもエンジニアになる人の男女比は明らかな偏りを見せている。大学院の進学率も同様だ。
薄々気付いたかもしれない。つまり、これは生物学的な性差なのだ。どれだけ女性の待遇をあげようとエンジニアになる女性が急上昇する事はないのだ。
これだけいうと私が女性差別主義者だと捉われてしまうかもしれない。寧ろ逆だ。バニラジェンダー仮説を信仰する人間こそが女性を暗に差別しているのだ。上の議論でお気づきの通り、ここでいう「バニラ」とは男性の事を指し続けている。そして、これはどの機関、どの組織でもそうだ。ここに今の男女平等の歪みが存在する。それは、男女差別を取り除いた時、「男性のように」女性が生きる事が前提とされている事だ。生き方の基準が男性にあるのだ。
男性にとっての幸せが女性にとっての幸せとは限らない。当たり前だ。そもそも男性と女性を同じ土俵で比べてはいけないのだ。それは各々の育ちの違いの原因もある。だがそれ以上に脳機能が違うのだ。男性にとっての幸せが女性にとってのそれとは限らないし、逆もまた然りだ。どちらかの性はどちらかの性の上位互換でも、劣化でもない。
これを踏まえて我々は何をすべきか?簡単だ。選択を尊重できる社会を作る事だ。もっというと理想を捨てる事だ。男女平等が良いのはもちろん分かる。ただ、それが暗黙の上で女性の幸せ、もしくは男性の幸せを歪めているのかもしれない。その虚構に縋りつくくらいならば、男女はあるがままに振舞う事を許容する方がずっといい。
理系に行く男性がいても、芸術学部に行く女性がいてももちろんいい。そして、数学科に行く女性がいても、看護学部に行く男性がいてももちろんいい。大事なのは男女問わず、「男ならこう、女ならこう」といったジェンダーロールを押し付けない事、そして男女がちょうど半々を自然な状態と考えない事だ。
狩りに出るのは男ばっかりだったろう?あれだって自然なんだ。現代に求められているのは、そこで狩りに出ず家を守る男性と、自分から進んで狩りに行く女性が許容される自由さなのだ。そしてこれは自由であるからこそ、価値があるのだ。無理やり5:5が普通といって人数を取り揃えようとするのは傲慢なのだ。
もっともここではこのような指摘があるだろう。「自然ならばいいのか、そうするのは危険な思想だろう。それは自然主義的誤謬ではないか。」たしかにそうだ。全く正しい。自然であるから良いという思想は差別を招く。優生学もここからきている。今までは男が狩りに出て、女が家事をするのが自然、だからこそ男性は働き、女性は家事をすべきだ。というものだった。たしかにこれなら立派な自然主義的誤謬であろう。
しかし、私の主張はそうではない。男性が狩りに出て、女性が家事をするのが自然である事は否定しないが、そこから各々がジェンダーロールに沿って何かをすべきという価値観を否定するものだ。性別の垣根に捉われず、したい事をしたいように出来る事が多様性であろう。
では男性、女性が強制される職ならどうであろうか。例えば相撲の土俵には女性は上がってはならないとされている。これは先の主張に真っ向から反するものではないか。これについてはどう考えるのか。
私としてはこれは言葉遊びの領域だと考える。つまり「~であるべき」と、「~でなくてはならない」の違いだ。多くの男性、女性が強制される職は「~であるべき」ではなく「~でなくてはならない」事が多い。女性の着付けに男性が関与するのは心理的に望ましい事ではないだろう。
我々が認識を改めたいのは特に理由無く、あるいは昔そうだったからという理由だけで「男性、女性がすべき」となっているものだ。明確に理由をつけて何かを行う場合、それは差別にあたらない事が多い。
差別と区別の違いはその区分けが合理的であるかどうかだ。特に説明出来ない、あるいは非論理的な理由でその職につく権利を剥奪する事には反対であるが、明確に、論理的かつ合理的にその職にはその人しかつけないとするのに反対するのはおかしいだろう。
もし区別すら許されないのならば、誰でも簡単に医師を標榜したり、人を裁けるようになるだろう。それは社会システムの崩壊を招く。
ポルポトの誤りはそこからきていた。彼もまた、差別には反対であったが、彼は区別もまた差別と思い込んでいた。つまり、エリート層は非エリートを差別しているとして虐殺したのだ。結果、国には小学生で医師や弁護士を行うものが現れる始末であり、カンボジアの破壊を招いた。
彼の思想は原始共産主義と呼ばれるが、富や地位こそが差別を招くというものだった。だから一切の富を廃し、少しでも階級のあるものを失職させたり処刑を行ったのだ。ここには少し同意出来る人がいるかもしれない。富や立場が無ければ差別なんて起こらないと考える人がいてもおかしくはないはずだ。
しかし、それは因果と相関を履き違えている。差別の酷い国は往々にして貧富の格差や階級制度が苛烈な事が多い。もちろん、そこには非合理的なものも存在してそれに関しては取り払う必要がある。しかし、多くの場合差別の原因は富や地位ではない。他の、例えば人種、肌の色、出自が原因である事が多々だ。
こういえば分かりやすいだろう。アメリカ合衆国の大学は白人の在籍率が他の人種の在籍率よりも高い。ポルポトの主張は「この差別の原因は大学にあるから」大学を潰すようなものだ。しかし、この偏りに対して大学という組織そのものが責められるのはおかしい。結果と原因を履き違えている。責められるべきは大学の中に巣食う差別構造であり、それが非合理的なものから来ているならば是正する必要があるだろう。
ただ、これを理解している人は世界全体でもずっと少ない。実際、アメリカでもこの差別の原因を大学という組織にあると考え、黒人は白人に比べて低い点でも大学に合格できるようになっている。今世界で問題となっている逆差別である。かつての差別の揺れ戻しで差別が引き起こされているのだ。昔の失敗を今つけ払いしようとするとても愚かな発想である。
ともかく、差別と区別は明確に違うモノだと分かってもらえただろうか。今の男女の歪みもここから来ているといえるだろう。かつて女性が差別されていたから、今は過剰に女性を優遇しているのだ。しかも、男性目線での幸せになれるように。それは間違いだ。全体として考えるのでなく、一人一人自分なりの夢や幸せをもち、全体がそれを尊重出来るようになってほしいのだ。昔ならともかく、今なら教育水準も上がり、技術も進歩した。この大学にいる人はきっといいキャリアを積んで上に立つ人が多いだろう。だからこそ、様々なものを思いやれる、そんな人であってほしいと願う次第だ。