garakutagoya

興味、関心のあったこと、そして私の気持ちなどを残していきたい

適当妄言

「見えないものを見ようとして、望遠鏡を覗き込んだ。」BUMP OF CHICKENの天体観測の歌詞の一部である。ところで見えない、不可視のものを人間はどのように認知しているのだろうか?
例えば透明人間がいたとする。この時、透明人間が「いる」と理解するにはどうすればよいのだろうか?一つは視覚的に起こす事である。透明人間に体温があると仮定しよう、そうすればサーモフィルターなりで見る事が出来るだろう。あるいは彼に塗料なりを塗ってみたらどうだろうか?そうしたら誰にでもそこにいる事がわかる。
ではもしこのような手段で見えなければどうすればいいか?別に「いる」と感じるだけなら他の手段もある。例えば匂い、どんな動物でも匂いがあるのだからそれを嗅ぎ分ければ分かるかもしれない。透明人間が実は体臭濃かったら面白いね!
動物には五感が備わっている。その全てを活用すればそこにあるもの、そこにいる人を発見する事は実に容易い。
ではこの五感全てを使っても「視る」事が出来ないならば何をもってそれはいる事になるのだろうか?いる根拠のないものは何でいると言えるのだろうか?
そんなものは実際に存在しないんだ。見えるもの、触れられるもの、分かるもの以外に存在しないと断言するのも一つの考え方である。これを素朴実在論という。これそのものは自然科学が成立するための前提であり、非常に重要な考え方とされているが、哲学的には未熟とされている。自分が知覚しているものしか存在しないというのは自分を強く見すぎているという事だ。それと、例えば太陽の光で色が変わるように、見ているもの、感じているものは時々刻々と変化しているので、今自分が見ているもの、感じているものがそれそのものの状態ではないという事である。
ではそのものの本当の状態は何なのか?ここからプラトンの言うイデアという概念が生まれたのである。イデアとは物の本来の状態は霊界にあり、人間が見ているものはその模造であるという見方だ。だから、人の想像によってそのものの見え方は変わってもおかしくないという事だ。
この見えない、認知出来ないけど存在するというところから神なる概念というものが創造されたという事なのかもしれない。いずれにせよ、我々の世界には我々が感じられないけど確かに「いる」ものがあるのである。もし視られるのなら、「望遠鏡」で覗き込みたいものだ。