garakutagoya

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日記(2022/05/09)

かつて生物学の分野では群淘汰説が広く用いられてきた.これは生物は種の保存を最優先とし、種の利益となるように動くとされるモデルであった.これは直感的にはそれっぽく聞こえるが複数の問題があった.
まず第一に種の保存で示される種の概念が極めて曖昧である事だ.ここにおける種が群れ全体を指すのか,その生命体全てを指すのかが文脈によって異なっていた.例えばサルについて考えた時,種とはサルの群れの事なのか,サルという生き物全体の事なのかが明瞭でなかった.
また,群淘汰説において自然選択,自然淘汰は種や群れにおいて強く働くとされており,これを上の仮説と合わせると「利他的」な振る舞いを行う個体が多い方が存続しやすいとされている.ここにも誤りがみられる.
「利他的」な集団において,周りを利用して自己の存続だけを目的とする,種の利益でなく個体の利益を優先する「利己的」なものがいたとしよう.当然のことであるが,適応度は後者の方が高い.「利己的」な方が後世に生き残る可能性が高いのである.
とすると自然淘汰によって種の利益のために自己犠牲を行う「利他的」な遺伝子は絶滅する.
仮に集団全てが「利他的」な行動をとる集団であったとしても,上の説明から分かるように,もし"1体"でも「利己的」な行動を取る個体がその集団に移住して来たら,いずれ自然淘汰によって「利他的」な行動をとる遺伝子は滅んでしまう.そして,自然や野生の中で,ある特定の集団を,他の遺伝的形質をもった他の集団から隔離する事はほぼ不可能であり,また仮に出来たとしても,突然変異によって「利己的」行動を取る個体が発生することを排する事が出来ない.
以上の2つの理由から群淘汰説は非現実的なものであり,進化の単位は種ではないという事が広く普及している.事実,多くの動物で種の利益となる「利他的」行動といわれていたものは実際には異なっていた事が知られている.レミング集団自殺を行わないのだ.
現在,進化の単位として広く普及している説は遺伝子とされている.我々は安易に「種の保存」として人間の行動を説明しようとすると,道を踏み外したり差別に繋がる恐れがある.優生学は正にこの群淘汰からきている.ナチス・ドイツにおいて,ゲルマン人は高潔な存在であったからその"種"の保存のために他の存在(ユダヤ人やロマ)は断種を強いられた.その面においても進化を理解する事は非常に重要である.