garakutagoya

興味、関心のあったこと、そして私の気持ちなどを残していきたい

日記。その17

私は死の淵にいたアレックスを本人の同意なくロボット化して生かした事は間違いだと考える。勿論、家族の願いとしてはどんな形でも父親が生きて欲しいと願うだろう。それに関してはよく分かる。ただ、その手段としてロボット化を生じた博士には責任があるだろう。
まず第一にリスクの説明が足りない。アレックスが爆破された後、生きる手段としてロボット化される事自体は伝えているが、それを遠隔で操る事が出来る(ロボコップ化される)とは伝えていない。この処置を治療として見た時、そのリスクについて触れないという事は許されない。身体がロボット化される事は知っていても義足のような形かもしれない。それについて本来詳細な言及が必要だ。
また、大きく人類構造を逸脱している。ロボコップは武器を携帯する描写があるがそれは元のアレックスの身体と大きく異なる。明確に戦闘ロボ化されている。それは果たして適切なのか?君だって生き延びる代わりにワニにされると言われたら悩むだろう。
しかし、もしかしたらこういうかもしれない。生き延びるのなら何でもいいと。どんな形でも生かしてくれと。しかし、生きているとはそもそも何だろうか。この映画では会社からの指示により、脳波が変わり、アレックスの意思と無関係に行動する描写があった。これはアレックスが本当に生きている事になるのだろうか?
自分の身体も保てず、自分の意思すら自分でコントロール出来ない。この場合主なのはどちらか?もしかしたら主なのはロボの方かもしれない。いうなればこれは、ロボットにまだ生きているアレックスという名の警官の脳と心臓と肺を移植したにすぎないとすら考えられるだろう。つまり、アレックスはもう死んでいて、ロボットにアレックスの思考を植えつけたにすぎないという事だ。
これらの問いに対しこの映画では以下のように答えている。具体的には、途中から指示を無視するのだ。会社からの指示を無視して自由な行動を行う。自由とは即ちその存在の意思だ。そして、この意思はアレックスによるものなのは明らかだ。つまり、主はアレックスであり、アレックスの身体がロボットになっただけで、精神はそのままであり、アレックスは生きているといった事だ。
だが、もしプログラムの指示に抗えなかったら?最後にセラーズを撃てなかったら?それは生きていると言えるのか?臓器移植との違いは何だ?
ともかく、ロボット化を取り行った博士には多大な責任がある。一つはリスクの意図的な隠蔽、そしてそれに伴う自由意志を剝奪されたものの生死についての倫理的問題。人によって生きているか、死んでいるかの価値観は大きく異なる。実際、アレックスはロボット化した肉体を見て自分を殺すようにいった。そこで自分を殺さなかったのももしかしたらプログラムによるのかもしれない。人によってアイデンティティーは異なる。それを勝手に揺らがせた博士については(結果が良かったとしても)裁かれるべきだろう。そして、もし次回作があるならば自由意思を取り戻せなかった、つまりプログラムで完全に操られたアレックスの生死についてどのような答えを下すかを見てみたいものである。