garakutagoya

興味、関心のあったこと、そして私の気持ちなどを残していきたい

日記。その16

もし、全ての差別や区別が無くなったとしたら、男女の社会的性はどうなるのだろうか?我々は無意識にこれが同じになると思い込んでいる。例えば、「女性が昇進出来ないのはまだ差別があるからだ。差別を取り払えば男女共に同程度の比率となるはず。」と言った言論である。これはバニラジェンダー仮説といわれる。実際、フランスには「パリテ」といったものが存在し、どんな場であっても男女同数を維持しようとしている。この大学だってそうだ。男女比に偏りがあるからこそ、女学生の入学者を増やすようにキャンペーンを行っている。しかし、これらのキャンペーンには本当に意味があるのだろうか?
ファクトフルネスという本が一昨年流行った。ここには人間の10の本能による勘違いが記されている。その中にこういったものがある。単純化本能、犯人捜し本能、そしてパターン化本能といったものだ。私はバニラジェンダー仮説とはここから生まれているのではないかと考える。
我々を含め大衆は愚かだ。そのため、単純な帰結を得るものに惹かれてしまう。つまり、職場に女性が少ないのは女性差別があるからだといったものだ。
厄介なのはかつて女性が少なかった原因として女性差別がそこに存在した事は歴然とした事実ということだ。明治、昭和時代は世界問わず全世界で女性が就労したい仕事を自由に選べない現実があった。そのため、現代においても女性が少ない理由をそこに求めてしまう。いうなれば事象を単純に考え、誰かのせいであると犯人を捜してしまうのだ。
しかし、それが今の男女雇用の不均等を招いているとするのは早計だ。実際に日本よりもデータの上で男女平等とされるアメリカ、スウェーデンであってもエンジニアになる人の男女比は明らかな偏りを見せている。大学院の進学率も同様だ。
薄々気付いたかもしれない。つまり、これは生物学的な性差なのだ。どれだけ女性の待遇をあげようとエンジニアになる女性が急上昇する事はないのだ。
これだけいうと私が女性差別主義者だと捉われてしまうかもしれない。寧ろ逆だ。バニラジェンダー仮説を信仰する人間こそが女性を暗に差別しているのだ。上の議論でお気づきの通り、ここでいう「バニラ」とは男性の事を指し続けている。そして、これはどの機関、どの組織でもそうだ。ここに今の男女平等の歪みが存在する。それは、男女差別を取り除いた時、「男性のように」女性が生きる事が前提とされている事だ。生き方の基準が男性にあるのだ。
男性にとっての幸せが女性にとっての幸せとは限らない。当たり前だ。そもそも男性と女性を同じ土俵で比べてはいけないのだ。それは各々の育ちの違いの原因もある。だがそれ以上に脳機能が違うのだ。男性にとっての幸せが女性にとってのそれとは限らないし、逆もまた然りだ。どちらかの性はどちらかの性の上位互換でも、劣化でもない。
これを踏まえて我々は何をすべきか?簡単だ。選択を尊重できる社会を作る事だ。もっというと理想を捨てる事だ。男女平等が良いのはもちろん分かる。ただ、それが暗黙の上で女性の幸せ、もしくは男性の幸せを歪めているのかもしれない。その虚構に縋りつくくらいならば、男女はあるがままに振舞う事を許容する方がずっといい。
理系に行く男性がいても、芸術学部に行く女性がいてももちろんいい。そして、数学科に行く女性がいても、看護学部に行く男性がいてももちろんいい。大事なのは男女問わず、「男ならこう、女ならこう」といったジェンダーロールを押し付けない事、そして男女がちょうど半々を自然な状態と考えない事だ。
狩りに出るのは男ばっかりだったろう?あれだって自然なんだ。現代に求められているのは、そこで狩りに出ず家を守る男性と、自分から進んで狩りに行く女性が許容される自由さなのだ。そしてこれは自由であるからこそ、価値があるのだ。無理やり5:5が普通といって人数を取り揃えようとするのは傲慢なのだ。
ここまで読んでくれた人は思うかもしれない。「ならばなぜ人は男女の比率を半々にしようとするのだ。それは誰の幸せなのか。」と。それについてはまた別の機会にでも話そう。